黒木 知宏

(千葉ロッテマリーンズ/1995年ドラフト2位/投手)

[主なタイトル=最多勝(1998)、最優秀勝率(1998)]
球 団 試 合 投球回 防御率 勝 利 敗 戦 セーブ 奪三振 四死球 本塁打
1995 ロッテ 20 80 3.71 58 28
1996 ロッテ 28 135 2/3 3.58 90 61 11
1997 ロッテ 32 240 2/3 2.99 12 15 179 88 24
1998 ロッテ 31 197 3.29 13 124 90 14
1999 ロッテ 29 212 2/3 2.50 14 10 171 69 14
2000 ロッテ 26 160 5.18 10 12 134 49 21
2001 ロッテ 17 125 3.02 11 89 30 12
2004 ロッテ 34 2/3 4.41 20 22
2005 ロッテ 17 2/3 4.58
2006 ロッテ 6.75
2007 ロッテ 1 1/3 0.00
通算   199 1208 2/3 3.44 76 68 879 447 116

赤字はリーグ最高

 「ジョニー」の愛称で親しまれている選手。1995年すなわちルーキーの年に、若手積極起用の方針をとっていたバレンタイン監督に見出された選手の1人。投球はきわめてオーソドックスで、直球も変化球も一流だが、超一流というわけではない。だが、気合のこもった魂の投球という意味では、黒木の右に出る者はいないだろう。
 黒木には有名な1つのエピソードがある。1998年、ロッテが日本ワースト記録となる18連敗を喫したときのこと。すでに16連敗を喫して次に負けると日本記録の17連敗になるという時の試合に黒木が先発したのだが、実は連敗中初めての先発だった(それまで中継ぎに回されていた)。3−1と2点リードして完投寸前、勝利まであとストライク1つという場面で、オリックスのプリアムに同点2ランを浴びてマウンドにうずくまってしまう。あふれ出る涙が止まらず、痙攣のため降板。だがグリーンスタジアム神戸(現・ヤフーBBスタジアム)のアナウンスDJが、敵選手ながら「ナイスピッチング、黒木」とコールすると、大きな拍手が沸き起こった。敵味方とも黒木のピッチングに酔いしれていたのである。試合は結局延長戦の末ロッテが敗れ、連敗記録を更新してしまった―――

 だが、このことは黒木にとって大きな糧になった。チームは万年Bクラスだが、黒木は集中力を切らさず気合の入ったピッチングをするようになる。翌1999年もそれは変わらず、優勝戦線からとっくに脱落していた8月にも
「最下位は二度とごめんだ。また前半戦のような戦いがしたい。優勝が決まるまでは絶対あきらめない」
 と言って気迫の投球を続けた。そんな黒木の投球にチームの成績が比例することはなかった。2000年は大不調に陥るものの、2001年は開幕から快進撃する。しかし、後半戦開始早々に右肩の故障で無念の戦線離脱。長いイニングを投げすぎたことによる勤続疲労であることは明らかで、故障が長引いて2002・2003年はともに一軍登板なし。2004年は恩師・バレンタイン監督も復帰し、自身も復活のマウンドに立ったが、本調子にはほど遠く、さらに右ひじの遊離軟骨除去手術を行った。2006年にはプロ初セーブもマークするが、オフには全盛期の10分の1以下となる、年俸1600万円(推定)で契約更改。しかし以前のような投球には程遠く、とうとうオフに戦力外。現役続行にこだわるも獲得する球団は現れず、現役引退を決意した。お疲れ様でした。