小久保 裕紀

(読売ジャイアンツ/1994年ドラフト2位/内野手)

[主なタイトル=本塁打王(1995)、打点王(1997)]
球 団 試 合 打 率 打 数 安 打 本塁打 打 点 三 振 四死球 盗 塁
1994 ダイエー 78 .215 177 38 20 31
1995 ダイエー 130 .286 465 133 28 76 94 62 14
1996 ダイエー 126 .247 478 118 24 82 95 55
1997 ダイエー 135 .302 527 159 36 114 112 56
1998 ダイエー 17 .225 71 16 11 19
1999 ダイエー 130 .234 465 109 24 77 103 64
2000 ダイエー 125 .288 473 136 31 105 85 41
2001 ダイエー 138 .290 535 155 44 123 97 65
2002 ダイエー 136 .292 507 148 32 89 90 69
2004 巨人 125 .314 462 145 41 96 101 44
2005 巨人 142 .281 524 147 34 87 114 67
2006 巨人 88 .256 308 79 19 55 68 32
2007 ソフトバンク 124 .277 466 129 25 82 103 44
2008 ソフトバンク 106 .253 383 97 20 56 95 48
通算   1600 .275 5841 1609 366 1073 1207 659 55

赤字はリーグ最高。

 1992年のバルセロナ五輪に、学生ではただ1人日本代表に選ばれて注目を集める。ダイエーに逆指名で入団、即戦力として期待された。しかし、必ずしも期待通りの結果を残したとは言えない。1995年は本塁打王ながら30本に満たず、1997年はプロ入り後最高の成績を残したものの、1998年は世間を震撼させた脱税事件によって開幕から8週間の出場停止処分を受けたほか、右肩を故障してわずか17試合の出場にとどまる。
 王監督は小久保が未完の大器であることを見抜いており、とにかく我慢強く使い続けた。1999年はダイエーとして初めて優勝したが、小久保の成績は振るわない。それでも、スタメンで出た試合は全て4番であった。その我慢が実ったのは2001年。この年は44本もの本塁打を量産し、タイトルこそ取れなかったものの、我慢した甲斐があったと王監督も胸をなでおろしたことだろう。

 2003年のオープン戦、本来休みであるはずの日にスタメン出場を志願。その試合で本塁に突入した際に右ひざを負傷し、1年を棒に振った。さらにその年のオフ、ダイエーと軋轢が生じ、巨人に無償で放出される。王監督・選手会長松中以下は猛反発し、大騒動となった。なんでもアメリカでの治療費約1000万円を球団側が支払わないことなどが理由だそうだが、真相は不明である。ここでの明言は避けておく。
 なかなか打撃が開花しない時代から練習熱心な選手だったが、今でもそれは変わっていない。そして若手に対する面倒見も良く、時には厳しい言葉で直言することもあった。そういう「うるさ型」な面がダイエーに嫌われたという噂もあるが、若手に対するいい見本になる選手であることは間違いないだろう。

 2004年はひざに爆弾を抱えながら出場し、タイトルは取れなかったものの素晴らしい成績を残し、カムバック賞に輝いた。しかし小久保自身はこの成績に満足しておらず、「盗塁できなければ本調子ではない」という趣旨のことを述べた。2005年はひざの状態が良くなり、守備・走塁では前年以上のものを見せたが、4番を任されることが増えた打撃のほうはいまひとつの成績に終わってしまった。2006年オフにFA宣言し、古巣ソフトバンクに復帰。松中に代わって4番に座るなど精神的な支柱にはなっているが、故障もあって成績は落ちてきている。王監督勇退後のチームをもう一度引っ張りたい。