東海大相模(神奈川)高校出身のドラフト1位。高卒か大卒かの違いこそあれ、原辰徳監督と同じ経歴である。同じ右打ちだし、姓まで同じ。現在も主力として活躍する仁志(ドラフト2位)、清水(同3位)を差し置いて、1995年秋のドラフトで1位指名された。期待度の高さをうかがい知ることができよう(逆指名選手を2位で確保し、高卒の有力選手を1位指名するというのは、2001年に自由獲得枠が導入されるまで、どの球団もよく使う手法ではあったが)。
1990年代の巨人は、捕手を固定できないことが最大の悩みであった。それだけに、原にかかる期待は大きかった。だが打撃面では期待通りのものを見せる場面もあったが、リード面が弱点だった。大卒・社会人卒ではあったが同期入団の仁志・清水は1年目から大活躍、後に入団した捕手の小田らにも先を越される。故障もあっていっこうに一軍からお呼びはかからず、苦難の日々が続く。
前述の原監督が2002年に就任したが、やはり出番は来ない。しかし8年目となる2003年、アメリカでの自主トレを敢行した結果、初めて開幕一軍ベンチの座を手中にした。そして開幕2戦目の2003年3月29日の中日戦、代打で出場し、久本からプロ初ヒットを放つ。7年間の苦労が頭をよぎったのか、ベンチで涙を見せた。同期入団の仁志・清水からも祝福されたという。その翌日、今度はプロ初本塁打となる2ランを放つのだが、東京ドームの看板を直撃する特大アーチだった。年俸860万円(当時、推定)の原が、賞金100万円をゲットしたのである。しかも、塁上には仁志がいて、ホームベース上では次打者の清水が待っていた。恐ろしい偶然である。
2004年に就任した堀内恒夫監督は、捕手2人制をとることが多かったので、守備力のある村田か小田がベンチで、原は二軍生活が長かった。しかし2006年は3年ぶりに原監督が復帰。登録は捕手だが、打撃力を生かすために一塁・三塁・外野の守備練習をすることが多いようだ。交流戦では、相手が左投手の時に指名打者に座ることも増えたが、後半戦は二軍暮らし。オフに戦力外通告を受けてしまった。