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ヤクルト元応援団長、岡田正泰氏2004/1/22up

 スワローズの応援でまず思い出すものといえば何であろうか。私ならまず、ビニール傘での応援と東京音頭である。この両者を定着させた人物こそ、これから取り上げる岡田正泰氏である。この岡田氏は2002年7月30日に71歳で逝去しているが、これを聞いた選手や応援団の人たちの悲しみようは尋常ではなかったという。これほどまでに愛されたのはいったいなぜなのか。

 今でこそヤクルトはAクラスが当たり前の球団となっている。しかし、少なくとも野村克也(現楽天監督)が監督を務めるまでは、万年Bクラス球団と呼ばれて嘲笑される存在だった。この球団は国鉄→サンケイ→ヤクルトと親会社を変えているが、1990年代に入るまでの成績は似たり寄ったり。参考までにチーム成績を記してみると…。

年代 優 勝 2・3位 4位以下
1950年代 0回 0回 10回
1960年代 0回 1回 9回
1970年代 1回 2回 7回
1980年代 0回 1回 9回
1990年代 4回 1回 5回
2000年代 1回 3回 2回

 こういうチームであるが、岡田氏が当時の国鉄スワローズのファンになったのが1952(昭和27)年のことだという。当時は優勝どころかAクラスにもなることができない弱小チームだった。外野席にいる観客が10人に満たないということもあった。それでも岡田氏は熱心に球場に足を運んだ。
 「応援に金をかけない。そんな金があるなら明日の入場券を買え」というのがポリシーだったという岡田氏は、家庭にあるフライパンを叩いて応援を始めた。まだ鳴り物の応援が行われていない時代で、こういった応援の仕方は珍しかった。したがって、「なんだあいつは」みたいな目で見られるのが普通だったという。

 それでも熱心に熱心にフライパンを叩き続け、次第にこれを真似する人が増えていったが、当時はフライパンがない家庭もあったので、「絶対にどの家庭にもある」というこうもり傘を使った応援に変更する。これが傘を使った応援の始まりであった。しかし黒いこうもり傘を使った応援は、しばしば観戦の邪魔となったので、透きとおったビニール傘での応援に変更され、現在に至っている。
 1978年にチームが初優勝したときには、「(東京人なら)絶対に知っている」東京音頭を使った応援も始め、歌詞カードをガリ版で刷ってスタンドで配って歩くこともした。そんな過程を経て、岡田氏の存在は次第にスワローズファンなら誰でも知っているという大きな存在となっていく。ちなみに、カープ応援団がプロ野球で初めて鳴り物を使って応援を始めたのもちょうどこの頃で、この応援方式が全球団に取り入れられ、現在も続いている。

 皆さんは昨今のプロ野球の応援について、どう思っているだろうか。個人的には鳴り物を使った応援はあまり好まないが、これは好みの問題なのでまあ良い。しかし、最近の外野席はまことにおかしな空間になっている。平然と応援の強制が行われており、応援しない人は内野に行けという雰囲気になっている。しかし、どう応援しようとも個人の勝手で、応援しない人は高い内野席を買えというのはあまりに無理な言い分ではなかろうか。ちなみに私は贔屓球団が特にないのだが、それでも外野に座ったら闘魂こめて、六甲おろし、燃えよドラゴンズなどを歌わなければならないのだろうか。私はそうは思わないので、強制されてもいつも無視している。

 岡田氏は生前、こう述べたことがあった。
 「ファンに喜ばれる、というのがオレの応援のポリシーだ。応援しろと強制なんかしねえよ。応援を楽しむことによりファンが乗って、そのファンの応援で選手を乗せられれば、最高じゃないか」
 今の勘違い応援団員たちに聞かせてやりたい言葉である。

 最後に、岡田氏のご冥福をお祈りするとともに、岡田氏のポリシーがいつまでも受け継がれるよう願う次第である・・・

    


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