選手会長・古田敦也2004/10/15up


 「メガネをかけた捕手」として有名になった古田。当時ヤクルトの野村監督に捕手としての全てを古田に伝授、球界最高のキャッチャーへと成長していく。1991年に首位打者を獲得、1993年には脅威の盗塁阻止率.644をマーク。めちゃくちゃに強肩というわけではないが、捕球してから投げるまでの時間が異常に短いのだ。

 そして1998年に選手会の会長に就任するが、異例の6年にもわたってその任務をこなしている。それは古田があまりにもその役に適任であり、これに代わる人材はそう簡単に見つからないからであった。古田は就任当初から「セパ交流試合」の導入を主張、さらに年俸交渉における代理人使用の許可を訴え続けてきたが、これは長年にわたる選手たちの気持ちを代弁したものであった。

 そんな過程を経て2004年。6月13日に突然、オリックスと近鉄の合併が発表される。当該球団のナインにとっても寝耳に水で、当然のように選手・ファンの間で猛烈な反対運動が勃発することになるが、この日から古田は超多忙の毎日を送ることを余儀なくされるのだった。むろんプロ野球選手はシーズン中は誰でも忙しいのだが、その領域をはるかに超えていた…。

 6月17日には早くも古田会長は動きを見せ、特別委員会の開催を要望したが聞き入れられない。21日夜には「報道ステーション」に生出演して「12球団に戻す方法を考えてほしい」と主張、30日には近鉄買収を発表したライブドアに対し歓迎のコメントを発表した。奮闘するものの機構側の反応が鈍いことに業を煮やし、7月7日には初めてストライキの可能性を口にすることになる。

 その間にはファンの間でも署名活動など、激烈な反対運動が巻き起こったが、経営者側はほとんど聞く耳持たないようであった。そんな中で8月2日、シーズン中の深夜であるにもかかわらず、またしてもTV(すぽると)に生出演して胸のうちを熱く訴えた。10日にオリックスと近鉄が合併承認の調印をすると「強い憤りを感じる」とコメントした。12日には連合の笹森会長と会談、精力的に動き回るが、それでいて試合をおろそかにすることはなく、むしろ4番に座って攻守の中心となり、3試合連続アーチを放つなど、問題発生以前にも増して大爆発した。

 9月9日、10日は労使交渉が朝から夕方まで行われ、11・12日のストは回避された。しかし16・17日の同交渉では溝が埋まらず、17日はヤクルトの試合がなかったこともあって夜まで交渉を続行したが合意に至らず、プロ野球史上初のストライキに突入することになった。会見では疲れきった表情を浮かべながら「合併に反対して、署名をいただいたたくさんのファンにおわびを申し上げます」と謝罪した。

 以上の通り、古田は精力的に活動をしてきたが、それは多くのファンの希望とも合致するものだった。その証拠に、敵地である東京ドーム・甲子園などでも「古田コール」が巻き起こっている。また、ヤクルトの試合がないパリーグの球場でも「古田コール」が起こる場合があったという。それだけではなく、古田を賞賛する内容の横断幕はセパ問わず各球場で見ることができた。

 残念ながら史上32人目の2000本安打は2005年シーズンにお預けとなったが、グランド外での古田の貢献はプロ野球界にとって大きかったと言っていい。もちろん、選手会の言うことがいつも正しい、古田の言うことが絶対である、というわけではない。だが、閉塞しきってファンの希望と反対の方向に進もうとしていたプロ野球界を、ファンの望む方向に導いたことは高く評価されるべきである。オリックスと近鉄の合併は両社の経営上の問題から阻止することはできなかったが、今後はプロ野球界も開放的に、良い方向に進むことが多少なりとも期待できるようになった。

 古田会長、お疲れ様でした。そしてこれからも応援します―――